オリンピックスポンサー降板相次ぐ
オリンピックスポンサーは4年間契約で200億円。これが重いというのだ。この金額の純利益を上げるためにはその10倍くらいの売上が必要だとするとその会社の2000億円の売上が宣伝費に回る。それは認知向上ではなく、ズバリ、イメージアップ。
確かに電機メーカーや飲料メーカーなど、似たりよったりの業界はイメージが大事なのだろう。オリンピック公式スポンサーで一番有名なコカ・コーラは、それこそスカッと爽やかコカ・コーラ。味も値段もなく、イメージだけの宣伝がほとんどだ。
でも、その公式スポンサーが次々に降板しているという。どこもできるなら続けたいだろう。イメージがよくなって困ることはないからだ。でも降りる。なぜなら売上に対して高過ぎるから。ご時世と、値段が釣り合わなくなったのだ。
かつてのロス五輪以降、オリンピックは儲かる、というのが常識だったが、ついにこれも曲がり角に来たのだろう。そもそもスポンサー降板の前に、立候補する都市がなくなってきている。
オリンピックというものが肥大化しすぎたのだろう。一種の、利権の塊のような世界。そう言えば、FIFAでは数年前に大汚職事件があったっけか。
2年後は日本でオリンピックが開催されるが、結局これも肥大化してミニマム開催からは程遠いものになってしまった。
高度な教育が一般化すると、みんなお互い欺きあう。少なくとも、自分だけが損するのではないか、もっとうまいやり方を隣は知っているのではないかと疑いが生じ始める。疑いが高まると自己防衛にも余念がなくなる。攻めにも守りにもお金が嵩み始める。
教育というのも、ある意味、良し悪しだ。
オリンピックはイベントとして、最高に楽しい。でもちょっとサイズが大きくなりすぎたかな。選手のプレッシャーも尋常ではないでしょう。
結論もないけど、何だか、誰かの、あるいは特定の個人ではないある種の集合体の欲望のために、オリンピックが食い潰されていってるような気がしてならない。
「盤上の向日葵」読み始めた
将棋の世界を舞台に、殺人事件の謎を追う話。
まだほんの読み始めだが、伏線がたくさん出てきてとても緊張感がある。読み進めたい。
今回本屋大賞のラインナップを見ていると、この「盤上の向日葵」が将棋界、「騙し絵の牙」が出版界、「かがみの孤城」が子供界、「屍人荘の殺人」が密室モノ、、、と見ていくと、割と扱うテーマが古典的というか、変なものには手を出してないなあ。IT、コンピュータモノとか、変な専門モノとかは見られない。
まあ安定していていいんだけど、未来の世界や、ミクロの世界を描いたハリウッド映画のような、まだ見たことのない世界!みたいなチャレンジングなものは入ってこないよなあ。
結局SF作家はそもそもそうなんだけど、何かの専門性を持つということは二足以上ののわらじが必要な訳で、たとえば科学の東野圭吾、たとえば医学の海堂尊、たとえば武術の津本陽、のような、作家になる前のあるいは平行して深めている職業やライフワークがそのまま作品の世界になるような人を除けば、一般的な日常生活、もしくは実際に起きた事件を参考に描くしかない。
でもこの「盤上の向日葵」は将棋の、かなりディープな部分を舞台にしている。これは将棋という割と身近なものの、実はその深い部分はほとんどの人が知らない、という絶妙なモチーフをチョイスしている。そしてその厳しい世界を描くことで、凜とした世界觀を醸し出している。
この作品は最後にどんな驚きを与えてくれるのかわからないけど、テーマを将棋に持ってきたところで、すでに面白い。
思えば塩田武士のデビュー作、「盤上のアルファ」も将棋。将棋は深いゆえに、小説の題材になりやすいのか?
黒いマスクする人って、、
黒いマスクする人の気持ちが分からない。
ちょうどいま電車の中、目の前に立ってる人が坊主頭に黒マスク、さらにヒョウ柄の全身コートという出で立ち。この場合どちらかというと黒マスクはマッチしている。
わからないのは女性や、自分の子供に黒マスクをさせている親とかだ。
黒マスクは少し前の世代なら、暴走族をイメージさせるような代物ではないだろうか?それが今わりかし市民権を得始めているから、自分のついていけてなさに驚く。汚れがわからないので、あまり衛生的ではない気がするが、感覚はもう次世代なのだろう。
同じようなことが、いわゆるキラキラネームでも感じる。同世代で、同じような価値観で育ったと思ってい知人が、ある日突然キラキラネームを子供につける。あれ?!実はそういうセンスの人だったの?!と急に埋められない距離を感じる。
色んな新しいことが日進月歩で現れる現代。思えばかつて日本が鎖国から開国し、チョンマゲから洋装へ変わった時も、時代の変化に乗れる人、頑なに守る人、色々いたんだろうなあ。和服から洋服へ変わることに比べれば、キラキラネームや黒マスクは、本当に些細な変化だ。これを楽しむ余裕がないとな、、と思いつつもなかなかできない私でした。
アルマゲドンの男達のように強くなりたい
体を張った現場仕事の業界で生きる連中は強い。
学生の頃、舞台の照明会社でバイトをしていたが、これまた気性の激しい連中ばかりで、のんびり歩いていたら、どこからともなく「走れボケ!」の怒号が飛んできたものだ。
でもそのおかげで、さっと誰かのフォローに回るとか、危険予知と予めの対策に気が回るなど、常に周りを見られるようになった。
体を使う仕事は多くの場合、現場での連携が大事だ。パソコンに向かってパチパチやって、最終的に辻褄が合えばいい、というものではないからだ。リアルタイムでことが進んでいくのだ。
映画「アルマゲドン」を見た。冒頭の掘削屋の男達。命が危ういシーンでの連携プレー。当然一朝一夕にはできないが、オフィス通いの会社員には到底できそうにない。当たり前だ。でも彼らの大胆な判断と、細かいことにとらわれない生き様、そして仲間を大事にする姿勢は真似したい。そして彼らのように、後腐れなく、もっと感情を開放したいものだ。
たまには理由なく会社を休む、いいじゃないか
毎日会社と家の往復。
子供の成長は嬉しいし、週末は家族で団欒もありがたい。
だけど正直、頭の中が生活パターンで固まって来てる気がして、少し苦しくなる。弱音も吐かず、正しげなことをやり続けることが、時々目が回って気持ち悪くなってくる。
岡本太郎は自分の中に毒を持てと言った。なるほどと思っている。だがなかなか毒など持てない。どんな毒があるのか想像すらできない。でも言いたいことはなんとなく分かる。
今日は会社を休んだ。色々約束はあったけど、全部キャンセルして無理やり休んだ。体は比較的元気だ。やりたいことがあるわけではない。このところ鬱々としていて、気持ちが行き詰まってるような気がしたから、思い切って休むことにした。
まあ、なんと後ろめたいこと。でもいいじゃない
たまにはこういう日があっても。周りからすれば、大して迷惑でもないんだよ。逆の立場からすれば、休む?そうかい、ってなもんだ。
別にやりたいことがあるわけじゃない。
むしろ今のメンタルでは今日一日を持て余すだろう。
だが今日はぼーっと無駄に過ごすと決めたからそれでいい。無用の用と言うやつだ。
なぜ人はエロい行為の果にしか生まれないのか?
エロい行為は公衆の面前ではタブーとされる。
しかしエロい行為がなければ人類の繁栄はなかった。
というか、僕もあなたも、エロい行為の結果なのであって
言ってみればこの世はエロい行為が全てのスタートとなっている。
なのになぜエロい気持ちは
まるで汚らしいもののように扱われるのか?
エロくない人の方が、人間が出来ていると、一般的に評されるのは全くお門違いではないのか?
かと言って、性に対する欲望を丸出しにして、実際に身勝手なコトに及ぶと、身勝手なことをされた側はたまったもんじゃない。ていうか一生を左右する問題になる。
だからなのだろうか?この、種族繁栄に一番必要なものでありながら、ことさら下卑たものとして扱われるエロい気持ち。
うちのチビもこの4月で小学生。ころから色んなことを教えなければならないなかで、このエロというのが一番難しい。
エロの扱いについては、たぶん皆中学生頃からずっと整理などついていないだろう。僕も45歳にもなって、結局よくわからないのだ。小学生なんていわんがおやだ。
ただ程よい距離みたいのは教えてあげられるかな。あとは自分で一生もんもんと考えろと、言うしかないか(わざわざ言わないが)